忍坂彦命についてのつぶやき
次のやおよろず日本の神様辞典の記事を書くために「シナツヒコノミコト」を調べていますが、息長一族のところにちょっと絡んでる面があったので、そっちをちょっと調べていた。
そういえば、うちの御祭神の忍坂彦命も息長系列の人だったね。息長真手王の出自が定かではないようなので、このあたりの系譜は本当なのかよくわからないけど。
忍坂彦命を清水谷で祀っていたのってもしかして息長系の人たちだったのかしら?(うちはそこから勧請されている)
あーもう、記事の内容とは全然違う方向に頭の中が進んでるw
忍坂彦命って系図的には結構重要な位置にいる人。
実在したかしてないかとか色々言われるけど、なんか知らんけど清水谷で大切にお祀りされていたのが、松平のお姫様の夢枕に立って、うちに移されたって超不思議だよねー
忍坂彦命の御霊?が最終的には、縁もゆかりもない大阪市内の神社にお祀りされているって、わからんもんですわ。
でもまぁ夢枕に立って、ここが選ばれたってことは引っ越し先としては何か良かったんだろうね。
森田調べでは、全国のどこにも忍坂彦命を祀っている神社は、他には見当たらないんだしね。
(ちなみに古墳はあります)
メモ過ぎて、意味不明だと思います!すいません。
神様はいるかいないか、という問いに対して
時々、神様はいるかいないかという話になることがある。
(ある場所を指して『ここに神様はいるいない』との問いもある)
神様はいるのか、いないのか。
この二択で考えるとき、
神道の視点とは乖離しているように感じる。
いるか、いないか、の二択。
一神教の視点にも近い。
人間を数えるときみたいだし、
物体のようだ。
全てのもの(八百万)に神が宿るという見方は日本人特有のものだ。
私は基本的にその次元で生きているので、
ここ(場所)に神様はいないと感じる、と言われた時、『その人はそう感じるのだな』と思うのみ。
その場所で祈りを捧げている人がいれば、その人に問うとまた違う答えが返ってくるだろう。
そんな不確実な揺れ動くもの。
いるいないという言葉では語れないものだと思っている。
大祓祝詞 1
中臣(なかとみ)の祓詞とも呼ばれた。
古語拾遺によると、奈良時代以前から存在していたことがわかる。
神社神道の祝詞としては、千二百年前から今に至るまで、祭りの際に唱えられる詞として、非常に長い間存在している。
誰が作ったものか明らかではない。
約九百字で成り立っている。
(般若心経は四百字)
祓いの起源は記紀によれば二つ。
イザナギノミコトがイザナミノミコトを追って黄泉の国を訪れた時のこと、醜い亡骸を見てそれに触れた穢れを祓い清めるために禊をされた話。
スサノヲノミコトが暴れまわり、神聖な場所を汚したり数々の罪を犯した時、天照大御神は岩戸の中に隠れてしまう。
その後、無事復活され世界に太陽が戻る。